哲学MANの挑戦的な日常

意識高い系が自分には合ってる。

肉屋

今日は(もしかしたら人生で初めて)「肉屋」に行った。

生まれてからずっとスーパーマーケットという総合買い物所があったので行く機会がなかった。
 
で。
 
最近お世話になっている夫婦が肉屋を経営しているということで行ってみた。
 
小さなお店のショーケースに豚ばら肉や鳥胸肉が並んでいた。
もちろん、埋め尽くすほどの肉ではなく、少なく感じるくらいの量。
「あら!来てくれたの!うれしい!」
と奥さんに気づいていただき、旦那さんも「おー、ありがとうねー」と声をかけてくれた。
鳥のもも肉はないということで胸肉を購入。
あと豚のばら肉、ちょっと厚めのスライスを200グラム。
 
正直200グラムがどのくらいの量かはわからなかった。
スーパーで買うときは全てがパックに入っていて「その量でいくら」という買い方をしているからだろう。
 
落ち着いて考えればすぐに分かることだけど「何グラム欲しい?」なんて質問、こちらも人生で初めてだったから。
 
おまけにカツを包んでくれた。
「うちは揚げ物あんまりやってないけど、美味しいから食べて!」
と言われ、遠慮なくいただいてきた。
 
肉の要望ならなんでも大丈夫だそう、もちろん事前にだけど。
 
肉屋を後にしたが、まだ帰るわけにはいかない。
野菜を買ってないのだ。
 
ちょうど同じような小さな八百屋があったので入店。
6畳ほどの大きさだけど、必要なものは全て買えた。
おじさんが丁寧に新聞紙に野菜を包んで袋に入れてくれた。
 
 
これこれ。
これこそが買い物だね。
 
手間も時間もかかるけど。
 
スーパー入って、カゴ持って、欲しい商品入れてレジに並んで。
僕はレジの店員にも「こんばんは」とか「こんにちは」というのだが、全く返答はない。
あるのは「いらっしゃいませ」だけだ。
 
 
今、というか現代は景色を見ない。
他に魅力的だと感じるもので溢れているからだ。
携帯でいくらでも楽しいものが見れる。
それを止めてまで景色を見るのは実はちょっと違う。
移動時間や待ち時間にふと見上げた空、髪型を崩す風、冬の匂い、雨上がりのアスファルトから漂う湿気。
これは肉屋から八百屋に行く間に感じるものであり、わざわざ外に出て感じるものではない。
 
「あの頃」とはその複合体である。
でも、スマートフォンからふと視線をずらしたときに見える景色も同じなんだ。
 
無駄だと感じる全てが「あの頃」を作っている。
全てを有効活用することなんてできない。
 
 
今日は胸肉を唐揚げ風にして、あとほうれん草としめじの炒め物。
いつか料理がボタン一つで出来上がってしまう前に。