哲学MANの挑戦的な日常

意識高い系が自分には合ってる。

「アンダーザスキン 種の補食」を見て②

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はじめに言いますがネタバレありなので、映画を見た方、見ないという方だけ読んでください。

いろいろ意見を聞いたりブログをみて「なるほど」と思う事があったので書きます。

まず、こういう難解な作品は何かの比喩である事が多いということ。
例えば「マトリックス」は「自分」と「世界(社会)」との関わりをえがいたもの。
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「アンダーザスキン」では感情が欠落した主人公がある事をきっかけに気持ちが変化している。

始めは無感情で作業的に他人を補食していた。
その「補食」の作業は人間を液化して取り込むので、たぶん感情までも入ってきてしまうのだと思う。
映画のはじめに2人の男を補食するが、その2人は下心(性行為をする)事が目的なのであまり深い感情がない。
あるとすれば性欲と多少の不安や喜びぐらいだろう。
故に補食の作業は進むのだが、3人目、顔にコンプレックスがある人を補食しようとする。
その人はコンプレックスのせいで女性と関わりを持ったことがない。
車から声をかけられたとき、顔を見ても表情を変えない主人公に驚いただろう。
だから車に乗った。(もちろん主人公が美人だからという男の気持ちもあったはずだ)
車の中の会話で手を褒められる。
顔がどうではなく手を褒められて嬉しかったはずだ。
しかも主人公(女性)に主人公の方から顔を触らせる。
「どう?」
「柔らかい」
などと会話を進めていく。
そしてぼろぼろの家に連れて行かれ、補食されそうになる。

ただ、この男は補食の時の気持ちが他2人と違う。
女性といる事の喜びや人と接する充実感、興奮して歓喜していただろう。
その純粋な美しい気持ちに触れて主人公は逃げ出す。

美しい感情を知ってしまったから。

逃げ出した主人公は普通の人間のように生きようと、純粋な気持ちで他人と接したいと、愛し愛されたいと思ったのだろう。

だがそれはできなかった。
醜い心に殺されてしまう。




これは「感情への回帰」を描いた作品なのだろう。
暗い90年代(他人を傷つけるのなら何もしない方がましだ)を経て変化した00年代(傷つけ合うけど前に進まなくちゃいけない)を経験した今、他人とのコミュニケーションを「作業」にしてしまっている。
「いいね」したり「リツイート」したり。
ただその作業のなかで出会う素敵なものやキレイな感情にふれ「本当のコミュニケーション」へ憧れる。
憧れ手に入れようとするが、結局は叶わない。


主人公が最後、自分の顔を手に取って見つめる。
「これが私なのか」
「本当の私なのか」
「感情は不要なのか」
「望みは叶わないのか」
「人は悲しいのか」
「美しい物はなぜ存在するのだ」





まとめると
他人とのコミュニケーションが作業になっている現代、(古き良き)コミュニケーションへの回帰を望むみ、努力するがそれは叶わない。


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追伸
宇野常寛さんの本を読んで共感した内容が含まれています。