奇跡というと大袈裟かもしれないが、偶然が重なる感覚は不思議なものです。
先日、家族で近くのキャンプ場へ行ってきました。
フォレストパーク安達太良のコテージで一泊。
シーズン前ということもあって僕らの他にもう一家族いたくらいで、最高でした。
その出発の朝。
車に荷物を積んでいると坂の上から90歳くらいの腰の曲がったおじいちゃんが近寄ってきてこう言ってきました。
「車が止まってしまったんだけど、ちょっと見てくれないかい?」
修理ができるわけではないが、とりあえず車の様子を見に行くことに。
歩いて行くと坂の頂上の道の真ん中に小さな軽自動車が止まっていました。
(え!道の真ん中!おいおい、しかもハザードも出してない。)
田舎なので車通りは多くないのですが、にしても。
いざ車に乗ってまずハザードランプを出す。
しかも車はマニュアルでミラーも手動のタイプ。
(マニュアル!)
大事に乗っていることには感心しましたが、90のおじいちゃんが運転していたとなると感心するべきか怖がるべきか。
運転席へ乗ってみるとミラーも椅子もありえない角度や位置にあった。
(腰が曲がっているからだろうか・・・)
ガソリンは入ってるしエンジンもかかる。
でもギアを入れようとしてもどうにも動かない。
ギアが入らないって感覚かな。
動かないことを確認して、とりあえず道の真ん中から移動させないとと思った。
おじいちゃんは坂の下で座っている。
ひとまずお父さんを呼んで事情を話し、押して道路脇へ移動させる。
すると車で坂を登ってきた見知らぬおじさんが「どうしたの?」と声をかけてくれた。
事情を説明する。
すると車の持ち主のおじいちゃんがやってきたので「家はどこですか?」と聞く。
おさじさんも「じーちゃんどこから来たんだい?」と聞くも全く内容の違う返事。
(全く会話が成り立たない)
「もうなんか急にエンジンがな・・・
「おじいちゃんの家はどこ?」
「このあいだまで・・・
「おじいちゃん!家はどこですか!」
「助けてもらってよかった・・・
「おじいさん!家はどこですか!?どこに住んでるんですか」
「家はあっちだ」
ということでやっと答えてくれた。
よく見ると耳には補聴器を付けている。
おじさんがおじいちゃんを送ってくれるということで、車は坂の下へ移動させる。
あとは修理を呼ぶなりしてください。
ということで話は治まった。
高齢者の運転に思ったこと。
腰の曲がったおじいさんが運転している車からの視界は狭い。
耳が遠い人の運転は危険だ。
(その分視界でカバーできるかもしれないがこのおじいさんの場合それも危うい)
コミュニケーションも難しいくらいの高齢者の運転に怖さを感じた。
ただ、田舎だし「もう運転するな」ってなると家から出なくなってしまうのではとも思った。
どこへ行くにも何をするにも車が必要なのだ、田舎は。
奇跡のような偶然
車が止まったのが坂の頂上だった。
(しかも「漫画か!」って叫びたくなるような坂の頂上ぴったりに。)
その道は車通りが少なかった。
近くに家があって、人がいた(僕です)。
通りすがりに止まってくれるやさしいおじさんがいた。
そのおじさんは引っ越す前の家のご近所さんだった。
もし、坂の途中で車が止まっていたら後退して事故っていた。
もし、坂を過ぎたあとで止まっていたら我が家か土手に突っ込んでいた。
しかも、我が家はみんな外で荷物の詰め込み作業をしてたから誰かを引いていたかもしれない。
もし、あのおじさんが止まってくれなかったら、僕がおじいちゃんを家まで送っていくことになっただろう。
そうしたら出発が遅れに遅れていた。
(なぜならコミュニケーションがままならないから)
もし、都会でそんなことがあってもなかなか助けを呼べなかったのではないだろうか。
(いや、そんなこともないかもしれない)
いろんが偶然が重なったもんだなーと思った。
しかも、僕は普段実家にいないのだ。
久しぶりに行ったらこんな出来事があった。
だから田舎はやめられない。
誰も傷つかなくてよかった。
おじいちゃんに「もう運転はやめたら」と言いたい気持ちだ。
だが、言えないだろう。
でも、やめてほしい。
その後、坂の下の車はなくなっていたので修理に持って行ったのだろう。
日常はこういう気づかないほどの偶然が折り重なっている。
僕にはそう考えるのが自然だ。
その偶然が時々見える形になると「奇跡だ!」と思ってしまうのだ。
コテージでは家族にあたらに加わった妹の息子を中心に楽しいひと時を過ごしました。
ちなみに、一歳半になる妹の息子は手話で会話ができます。
アメリカでは広まっている「赤ちゃん手話」を覚えたようで「もっとたべたい」とか「のみものちょうだい」とか「さかな」とか「でんしゃ」など驚くほど多くの表現ができます。
長くなりそうなのでまた次回。