哲学MANの挑戦的な日常

意識高い系が自分には合ってる。

僕の未来

今日僕は生命保険に入ります。

 

僕は考えた。

「未来が待っているから人生は苦しいのではないか」

 

子供の頃は何も考えずに楽しめた。

という感想を持つ人は多いのではないでしょうか。

それはきっと「未来」がないからだと思います。

 

ここでいう「未来」とはわかりやすく言うと「予定」です。

 

子供の時はその日その日を楽しんでいました。

ので「今日遊ぼうよ」と友達を誘っていました。

修学旅行や夏休みがあったとしても、それはただやってくるだけで特に考える必要のないもだった。

 

しかし、中学生になり部活で「夏の大会」があったり「期末テスト」などがあったりして、準備をしないといけない未来の出来事が出来始めます。

 

中学生には数ヶ月先まで「未来」がある。

ということになります。

 

高校生になれば「進路」だ「就職」だ、で未来が一気に広がり、不安も多くなります。

 

大学生や社会人になればなおさら。

 

僕は20代のころバンド活動をしていました。

そうなると明確な自分で決めた目標ができます。

「ライブ」や「レコーディング」など。

未来はどんどん先延ばしになり、不安もどんどん多くなります。

 

これが、僕らがその日その日をあのころのように楽しめない理由だと思います。

 

なぜそう思ったかというと、それは震災がきっかけでした。

 

震災のころ、僕はワンマンライブが10日後に控えていました。

そのワンマンライブはその前の2月やった有名なバンドの前座からの流れで用意しました。

その直前には自分たちのCD発売を持ってきました。

 

CD発売→大きな前座→ワンマンライブ→躍進→フェス→デビュー

 

わかりやすく書くとこういう流れを目標としていました。

未来(予定、目標)がどどんとあったわけです。

 

しかし震災が来て一切の予定がなくなりました。

 

僕に残されたのは「その日」だけだったのです。

 

そこで感じたのは「自由」でした。

 

その日の分の食料を用意し、トイレの水を汲みに行き、食料が売ってると聞けば買いに行く。

次の日のことは考えなかった。

 

僕は人生から解放されたような感覚になった。

 

 

 

しかし、そこから徐々に未来が出来始めています。

「いついつから仕事がはじまる」

「いついつにみんなで歌うからこないか」

「ワンマンの振替公演をやろう」

 

一気に未来が出来始め、僕は人生の奴隷になっているのではないかと感じた。

長い時間をかけて徐々に変わっていくとわからないのだけど、震災でそのれを一気に体験した時、僕はそれに気づいた。

 

だから未来のない子供たちは自由なのだ、と。

 

 

 

現在僕の未来は来年の3月まではほぼ明確にある。

もうちょっとぼんやりしていると3年先まである。

 

昔、免許証か保険証の裏に臓器提供の意思表示スペースみたいなのがあり、その時の意思で「提供」に丸をした瞬間、僕は「死」が確約された気がして恐ろしくなり、すぐに消した。

 

「死」を本気で意識したというか「僕はいつか死ぬんだ」と知ってしまったのだ。

今日の書き方でいうと「死ぬ」という未来までが予定されてしまい怖くなった。

 

 

 

今日、僕は生命保険に入る。

一気に未来が広がる。

死亡保険に入り「死」を約束される時、僕は何を思うのだろうか。

僕の死は僕一人のものではなく社会のものになっていしまう。

システムとしての死だ。

大きなうねりの一部になる。

 

僕の人生は死ぬまでの永遠ではなく、生きている間の有限に変わる。