哲学MANの挑戦的な日常

意識高い系が自分には合ってる。

バク転理論



僕は果たしてバク転ができるのだろうか。
やってみたことはない。
だけど、それは出来ないということにはならないんじゃないか。

という考え方。


やってみたことないことを「出来ない」とするのが普通だ。

もし僕がバク転に挑戦して出来なかったら。
その時初めて僕のカテゴリーに「バク転出来ない」が加わる。


でもその時までは「バク転出来ない」ではなく「バク転したことがない」だ。

やってないことを出来ないと決めつけないのは都合がいいかもしれない。

でも、これは一つの考え方だ。


ちなみに僕は「ルービックキューブ出来ない」だ。
やったことあるが全く向いていない。

でも船の運転は「出来ない」ではない、やったことがないだけだ。


一度こんなテストを受けたことが。
車の運転に関するテストでこんな質問があった。

「あなたはお酒を飲んでいたが大した量でなかったので運転して帰れると思った。」

YES or NO

僕はYESに丸をした。

そのせいかわからないが結果は「重大事故危険ドライバー」に属された。

僕はここで意義を唱えたい。

確かに運転できると思った。
お酒を飲むといつも思う、この程度だったら運転できるな、と。
でも問題は運転するかどうかだ。

質問が「お酒を飲んで運転できるとは思ったので運転して帰る」だったらNOだ。

何を思おうが僕の自由だ。

唯一の自由である。


僕は誰かを痛めつけたいと思うことはあっても実際に殴ったりはしない。


話を戻します。

つまり、挑戦して、そして「出来ない」ことを知ることが一番だ。
出来ないことを知るために挑戦する。
挑戦の後に努力が必要となる。

僕は誰にも習ったことがないけど最初から泳ぐことが出来た。
自慢のようだけど、僕は人の真似をするのが得意だ。
電動のロクロで皿を作った時も初挑戦でなかなかいいものが出来た。



先生に「才能あると思ってるだろ」と言われたが、思ってない。
動きや何かを真似するのが得意なだけだ。


つまり「やってみなくちゃわからない」ってのはそういうことだ。
やってみないと出来ないってことすらわからない。

出来ないとわかった瞬間に諦めがつくこともあるし、もっと面白くなることだってある。

やってみなくちゃわからない。

やらないで口ばっかりのやつで「バク転出来ない」やつではないが「やってみようともしない」やつだ。