TETSUGAKUMANの挑戦的な日常

映画とか音楽とか自由とか。挑戦しながら生きていく。

日本人という

最近宗教とか日本についての本を読んだりした。
そこには学校で教わらなかったことがいろいろ書いてあり、びっくりした。

この「学校では教えてくれなかった」というのが重要なポイントだ。
戦後のGHQ占領政策を僕らは未だに受諾している。

僕は日本建国の歴史をはっきり知らなかったし、天皇についても無知だった。

というよりは無知にさせられていたのだ、故意に。
その結果欧米文化をじゃんじゃん受け入れ、日本の心はどこへやら。

昭和天皇マッカーサー元帥の会話を知らなかったことを今僕は恥じている。
学校が教えてくれなかったが故にこの歳になるまでそれを知らないという恥をかかされた感じだ。
精神改革とは恐ろしいものだ。


そこで僕はさらに戦後日本に興味が湧いた。
まだ日本が「日本」だったころに。


昨日僕は戦中戦後を生きたおばあさんと話しをした。
そこでは意外な話がいっぱい聞けた。
戦中はとにかくなんでも物は節約しなくちゃいけなかった。
学校にもって行くご飯はおかずが用意できないから日の丸弁当だった。
そして工場でみんなと薬莢(やっきょう)の点検の仕事をしたらしいのだが、みんなでする作業は楽しかったと聞いて驚いた。
そして、その工場で夜勤をしていたらあの仙台空襲が起こった。
男たちは女を守るためにみんなを引き連れて一度防空壕へ避難したが、どうにも耐えられないと判断し近くの広い畑へ逃げた。
みんなでうつぶせになっては逃げ、うつぶせになっては逃げた。
それでも次の日も夜勤があったそうだ。

ある日、工場でみんなが集められた。
何のことかもわからず行ってみると天皇陛下のラジオ放送が流れた(玉音放送)。
それでもいまいち状況を飲み込めなかったらしい。
でもその後からだんだん物が増えていき(節約しなくて良くなったから)しだいに豊かになったそうだ。
空いた土地があると聞けばみんなで耕しに行った。
でも町には進駐軍が来て怖かったそうです。
ある日、突然米兵が玄関に現れ何かを言ってきたそうで、出稼ぎでアメリカへ行ってことのある家族が英語で対応して「オーライーライ」と言って帰って行ったらしい。
しかし彼らはチョコレートなんて未だ食べたことのない甘くておいしい物を配ったりして「アメリカ人はいい人だ」みたいな雰囲気が漂っていったそうです。

チョコレート。


それから道路は整備され、家はでき、牛乳を飲み、パンを食い、挙げ句の果てにはNOと言える日本人にまで成長した。
食の欧米化はまず意識の欧米化を止めないことにはどうにもならない。


僕らは与えられた情報を知る。
受けた教育で育つ。

もうそろそろ日本人の日本人による日本人のための教育をしないと「日本」がいつの間にか消えてなくなってしまう。
戦前(日本)と戦後(変化していく日本)を知っている人がいなくなったら僕らは何を座標に意識をもてばいいのだ。
今の僕らとこれからのために、手遅れになる前に取り戻さなくちゃいけない。


僕は血の半分が日本の血だ、それが故に意識してしまう部分があるのかもしれない。
まだまだいろんな方の話を聞きたいなと思った。